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2010年1月20日
クロシタナシウミウシ Dendrodoris nigra
大瀬崎湾内では思いも寄らない場所に生物が生息している。
何もない砂地の海底をライトを当てながら、くまなく、それこそ眼を皿のようにして生物を探す。
30cm四方の空間をじっくりとトレースしながら探索するのだ。
2月も近づいてくるとフクロノリやその他の海藻類が芽吹きだし、何もないと思った海底も良く見るとグリーンに彩られつつあるのが分かるはずだ。
僕はいつも、こうして生物を探すときには、頭の中で音楽を感じている。
この日は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調Op.18。
チェコ・ナショナル交響楽団、ケマル・ゲキチの流れるようでかつ冷酷で正確なピアノ演奏が、終始、頭の中を流れていた。
リボル・ペシェク(Libor Pesek)の指揮するこの演奏は、従来のピアノ優先の協奏曲スタイルを脱却。
まさに協奏曲という古いようで新しい、未知のハーモニーを描いてみせる。
調子のいいときのダイビングでは、いつも第一楽章のフォルテッシモが強烈なドーパミン効果をもたらし、僕の中枢神経を陶酔させるのだ。クロアチア出身のピアニスト、ケマル・ゲキチのピアノの響きは、これまでの、どんなピアニストよりも透明な音を奏でる。ショパンの演奏では第一人者だが、ラフマニノフを弾かせれば現代では右に出るものがいない。いつも黒いベルベット地のジャケットを着て、長い髪をポニーテールのように束ねた姿が特徴的だ。悔しいくらいに強烈で妖艶なオーラを放つ男前のピアニストである。
この日、大瀬崎の湾内でラフマニノフを歌いながら見つけたウミウシが、このクロシタナシウミウシ。
真っ黒でマットな色調がベルベットを思い出させる。
やがて第二楽章が流れ始めると、それは宙に浮かび、重厚なグランドピアノの存在が突然消え去り、煌めく星くずのような旋律が確かな実態感を伴いながら輝き始めるのである。
第二楽章最後の分散和音の響きが消えるか消えないかのタイミングで、第三楽章が始まった。
木管とピアノソロの掛け合い。
世界中の誰よりも正確で美しく装飾音を奏でるケマル・ゲキチのそれは、実はしなやかでありながら力強い打鍵に支えられているのだ。
チェロが主題を奏でると、オーボエとピアノがもつれ合うように、呼びかける。
小さなシンバルの合図で第二主題が展開される。
金管が脳天を貫くような鋭さで煌めいた瞬間、海には流れが生じ、恥らうほどの透明さで僕を虜にしたはずが、一瞬にして淀みはじめるのだ。
うねりと躍動感。
押し寄せる波とざわめきの水泡。
まるで、これが本当の姿であると主張するかのように混沌とした流れと濁りが身を包む。
聞きなれた第一主題は既に過去のメッセージ。
転調を重ね、弾ける様なトリルで結ばれながら深みをさかのぼっていくと、そこはもう光だけが眩く、大いなる生命の懐に導かれている。
いつの間にかピアノはオーケストレーションの中に溶け込み、音の渦となって一気に、そう、まさしく一気に昇華するのだ。
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